まんまる会通信 第28号
(2002年2月23日発行)



第14回まんまるバザー報告
           2001年10月28日【日】
 いつもの場所でいつもの時間に準備開始。毎年バザーのお手伝いにきてくださる方は、手慣れたようすで会場の準備を進めています。久しぶりにお会いする方ばかりなので思わず寄って行ってお話したくなりますが、それは交流会までがまんがまん。「おばさま」たちに混じって、今回は若い人が数人、きびきびと立ち働いています。おかげで荷運びなどの力仕事がはかどっているようすです。陳列作業も順調に進み、体勢が整った頃には、入り口にお客様が並んでいました。朝からの雨にもかかわらず、ベトナムからの留学生達もかけつけてくれました。
 私は衣料品を受け持ちました。新品衣料がすぐに売れるのはいつものことですが、来場者60人余りと少な目だった割に中古衣料がよく売れました。食器はやはり日本人対象のバザーとは、売れる品の傾向が違うようです。残った食器を眺めては、食習慣の違いに話が及ぶのも毎年のことです。
 お昼の交流会は、席が足りないからと遠慮して帰ろうとされる方も引き止め、満員の部屋でわいわいと昼食が始まりました。毎年参加してくださる方と、初めて参加される方、それにまんまる会の会員と、合わせて40人ほどでしょうか、初めは表情がちょっと固かった初めての方も、だんだんリラックスして、最後は周りの人と電話番号を教え合っていました。
 まんまる会の交流会は、いつも手作りの家庭料理をみんなで持ち寄ります。自分が超多忙な時期とバザーがぶつかった年などは、買ったものを持っていこうか…などと密かに思ったこともありましたが、改めて、このスタイルはほんとにいいなあと、感じました。同じおにぎりと言ってもそれぞれ味が違いますし、五目寿司もしかり、それぞれの家庭の味があって、それが初めての人との話の糸口になります。
 今回はすべての段階で作業が順調に進んだようです。私は個人的によそのバザーを手伝うことがありますが、同じことをするにも、まんまる会は、一人一人の裁量の範囲、融通のきかせ方などが独特で、普通なら倍の人数が必要とおもわれることを、小人数で、しかも皆ニコニコしながらこなしてしまいます。手前味噌かもしれませんが、この点は誇りにしていいことだと思います。
 バザーも交流会も、毎回少しずつ雰囲気が違います。新しい出会いから得たエネルギーを、皆で今後の活動に生かしていきたいと思います。 
                               本多方子

バザー・交流会をきっかけに、若者達の交流が始まったようです。
彼らの感想を聞いてみました
山村   啓
韮沢 修一郎
 私にとって今回のバザーが、初めてのまんまる会行事への参加でした。小野さんの誘いで右も左も分からないままの参加でしたが、会員の方の親切なご指導で、バザーの準備から最後の片づけまでスムーズに行えたような気がします。交流会では、私と同じ位の歳の留学生と話す機会がありました。そこで身近な話題を話すうちに仲良くなった香港や台湾からの数人の留学生は、その一週間後に私達の大学のお祭りに遊びに来てくれました。私の他にその後もバザーで知り合った留学生とE-mailをしたり会って遊んだりと、プライベートで楽しい交流を続けている者もいます。バザーや交流会自体は一日のほんのひとときでしたが、世界の人々とこのように言葉の壁を越えて身近に心が通じ合い、暖かさを感じられる場所があるのは素晴らしいことだと思いました。そしてこのような交流の機会を何年も継続するという大切さが少し分かった気がしました。
 まんまる会のバザー、交流会を通して日本にいるアジア系留学生と触れ合うようになり、彼等の孤立してしまっている生活環境や就労の難しさなどを目の当たりにして、日本の外国人留学生に対する制度面での不備や「まんまる会」のように彼等と地域を結ぶ懸け橋としてのボランティア団体の必要性と、その力の大きさを感じた。

そして、なによりもうれしかったのは、普段めったに知り合う機会のない外国人留学生と友達になることができたことだった。

ぜひ、またこのような機会があれば参加したいと思う。

 エニワジャンクルバンさんからまんまる会バザーと交流会の感想文を送ってもらいました.彼は日本に来てまだ日が浅く、日本語の猛勉強中です。叔母さんの池田マリアさんに中国語から日本語に翻訳をお願いしました。
 私はエニワジャンクルバンと申します。今年の四月十七日に中国、新疆、ウルムチ市から日本語学校に来ました。先ず新疆という私の故郷をちょっと紹介したいと思います。北京、上海というと皆さんはすぐわかると思いますが、新疆というと日本人の方だけじゃなくて、中国の人もわからない人がいると思います。新疆は中国の一番西北部、北京から飛行機で4時間近く、汽車だと三日ぐらいかかる所です。

 面積は全中国の七分の一、ロシア、パキスタンに近いです。四季ははっきりしていて、夏は暑く+40°近く、冬は寒く−30°近くで、一番いい季節は秋です。果物がたくさんあり“果物のふるさと”ともいわれています。機会があれば、ぜひ一度遊びに行って下さい。私はそんな所から来ました。
 まだ19歳の私にとって、初めて家から出たので、すごく寂しかった。言葉もできないし、日本でおばがいて最初の5ヵ月ぐらいおばの家で住みましたが、友達がいないから夢でもずっと来たかった日本に来てからも、その寂しさで国に帰りたかった。でも今度おばの誘いでこのまんまる会に参加してすごく感動しました。日本の方は私たち外国から日本に来た学生のためにいろいろ苦労して応援してくださっているのに、私たちが寂しさに負けたらほんとうにもうしわけないと思いました。それからまんまる会の交流会で日本人の大学生とも友達になりました。すごく良かったと思います。これからも一生懸命勉強して、日本語も上手になって日本で自分の夢をかなえて国に帰ります。これからもいっぱい友達を作りたいから皆さんよろしくお願いします。

 「私たちには大きいことはできません。小さいことでも、長く続けていくことが大切だと思っています」と交流会の席で語られた鈴木明子(まんまる会会長)さんの言葉が心に残りました。続けてきたからこそ、新しい出会いが生まれ、輪が広がり、お手伝いの層も増え、新しい試みが増えていく、そんなことを実感した今年のバザーでした。

 そんなバザーの舞台裏をちょっとご紹介しましょう。
●年に1回のバザーですが、これを開くにはたくさんの人の小さな力が必要です。先ずは企画と広報。広報はバザー用の品物を集めるため、お手伝い募集、来場者への宣伝です。今年はポスターをボランティアの方たちにお願いしていろいろな言葉に訳してもらいました。留学生会館や大学などにまんまる会通信を置いてもらったり、留学生新聞、地域の広報紙などに情報を掲載してもらいます。バザーの品物はたくさんの善意ある人たちから届きます。事前打合せを何回か行います。
●バザー当日は各自手作りのお総菜を作ってから出かけます。手分けして車でバザー用品を会場に運びます。家族の協力も大きな力です。会場に到着すると、たくさんのお手伝いの方たちが持ち場をしっかり担当。慣れた手順も毎年続けているからこそ。最近は若い人たちの協力があり、たいへん助かっているのはもちろん、雰囲気も若返って楽しくなります。また、中国からの人たちもお手伝いに加わり、にぎやかに交流が始まります。

●イベント後も、残った品物を無駄にしないようにあちこちへ送ったり、寄付したりして、ようやくすべての行程が終了です。私たちが後始末をしている間、交流会で友だちになった日本人の参加者と留学生が交流を続けてくれることを願いながら。

 大勢の力が集まってできるまんまるバザー。今年もたくさんの仲間と楽しい交流ができたことを感謝します。今年参加できなかったあなた、来年はぜひとも参加して、友だちの輪を拡げましょう。

                          丸谷 士都子

次回バザーのお知らせ

第15回まんまるバザー

日時:2002年7月7日(日)
場所:かながわ県民センター

「水俣病の科学」 ー命尽くるまでー
 この本の筆者岡本さんから、まんまる会設立当時、“会を宝物のように育ててくだ
さい“と貴重なアドバイスをいただきました。そのことがこの会のモットー「細く、
長く続けよう」にもつながったような気がします。(小野)
    

                           鈴木 明子

  水俣病と聞いて「あれっ、ずいぶん古い話ね」と思われる方がいるかも知れません。最初に急性劇症型患者が発生したのが1953年、いまから45年前の出来事です。
 「水俣病はもう終わった」と思う方がいても不思議ではありません。どんな大事件でも、熱病のような一時期が過ぎると世の中から忘れ去られてゆくのが常です。そんななか、半世紀というはるかなる歳月を水俣病の因果関係解明という難問題に取り組み、膨大な資料を集めて営々と人々の話を聞き、研究に研究を重ねた人がいます。
 2001年6月「水俣病の科学」を上梓した岡本達明です。西村肇と共著となるこの書は昨年(2001年)11月第55回毎日出版文化賞を受賞しました。二人は徹底的に討論し、三回も四回も書き直して完成に至りました。岡本はその序章で述べています。
 「水俣病は、20世紀に起きた世界でも最大、最悪の公害事件ですー中略ー何が原因でこの大惨事が起こったのか、その原因と結果をつなぐ連鎖の関係が科学的レベルでは全く未解明、謎に包まれたままなのです。」
 皆さん、ここで又「あれっ」と思われるかも知れません。実は私もそう思いました。公害の原点と言われ、あれだけ騒がれた水俣病です。既に語り尽くされ、解明し尽くされているとばかり思っていました。事実は決してそうではなかったのです。
 東大法学部を卒業した岡本は、将来を嘱望されていたエリート社員でしたが、企業側に立たなかったたった一人の大卒者です。「第一組合」に残り、組合員と共に水俣病第一次訴訟の患者家族と共闘しました。厳しい闘いのなかで岡本は、患者家族からさまざまな話を聞きました。
 「私の子供は、私の親は、私のつれあいは、そして私自身は、チッソ水俣工場のどういう仕組みで水俣病にされ、殺されたり、これほどの苦しみを味あわなければならないのか、せめてそのわけを知りたい」この患者家族の切実な思いに応える義務があると考えた岡本は決心しました。「この歴史的惨事を後世の教訓にするために、事件の原因と因果の関係について、あいまいさや、あやふやさの無い科学的な説明を残さねば……」
 西村との共同研究を心に決めてから27年、遂にすべての問題を解くことに成功する日が来ました。「あまりにも遅すぎたかもしれませんが、一人の人間として、ようやく患者家族への責務を果たせたのです」と述懐します。
 本書は、序、第一、第二、第三章からなり第三章の大部分は西村の単独執筆、後は二人の共同執筆という形で進められ、執筆の責任は理論・化学に関する事は西村が、工場に関する事は岡本が負っています。
 「水俣病の科学」にその成果は詳細に述べられていますが、科学的知識のない私には残念ながら要約することは出来ません。どうぞ志のある方は、ご自身でひもといて下さい。本書に先立ち岡本は「聞書 水俣民衆史」全5巻を著作しています。「民衆にとって日本の今・現代とは何であったか」を明らかにすることをライフワークとしている岡本は、組合運動に関わって12年目に原因不明の難病に倒れ、以後闘病生活を続けながら、妻雅子の助けを借りて仕事を続けてきました。昭和10年生れの66才です。第六巻に当たる本書を終えたとき「あとがき」で次のように語っています。
 「あと『水俣病の村』の仕事が残っています。明日からまた新しい旅へ出発することにします。命がまだ尽きていなければ」
            「水俣病の科学」 日本評論社 発行   3,300円

(最寄りの図書館にリクエストなさるのも、良い方法かと思います。なお この本は、たちまち四刷となっています。)

編集後記
バザーで皆様とお会いしてから早四ヶ月が過ぎました。
通信28号をやっとお届けすることができました。
 これから迎える春に、いっせいに美しい花が開くように、
輝きを持った日々をおくれますように……
まんまる会ホームページhttp://www.eehit.com/manmaru/


御意見をお寄せ下さい。 丸谷士都子@まんまる会